’95-'96

 SINGLES発売。レコード会社の移籍。個人レーベルBeatNIXの設立。
楽曲のクリエイティブすべてにおいて最大限のこだわりをもって取り組む。 
そしてMISSING PIECE発売。”失われた欠片”を探す旅に出る…




SINGLESについて                      1995年7月
  (シングルに対して”名刺代わり”という言葉について)
「名刺というとすごく軽い感じにとられてしまうかもしれないけど、名刺というのは初対面の知らない相手を確認するための一番最初の手がかりだから。そういう意味で「自分というものが、みんなに一番伝わりやすい形の作品」をと考えると、今まで出してきたシングルになったんです。そういうシングルに対する意識は、今も変わってないし、名刺といってもそれはすごく大切な名刺で、それはファンのみんなも分かってくれていると思う」

(作詞家の松井五郎さんについて)
「松井五郎さんが書く詞に対して「人が書いたものだ」っていう意識は自分にはないし、松井さんが作ってくれた作品は最高に素晴らしいと思っている。松井さんと僕とのコミュニケーションの中で生まれてくるものだから」

(次の作品について)
「当たり前に歌いやすい曲にしようとか、聴きやすい曲にしようってことは考えてない。”Memories of Blue””SHAKE THE FAKE”ときて、また新しく始めようという意識の中で、今の自分が一番やりたいと思う形が作品になっていくんじゃないかと思う。期待しててくださいっていうしかないです。
アルバムに対しては、考えようというタイミングがくれば、生活のすべてがそれにいってしまうと思いますが、やっぱり今は次のシングルのことに自分の中の100%が向かってる。ただそういう積み重ねがアルバムになっていくんだとしたら、もうそのこと自体始まってるのかもしれないけど。今はアルバムのトータル感とかコンセプトというものを考えるより、始まっているシングルのレコーディングに対して全力投球というところです」
参考文献H

MISSING PIECE発売にあたり (かなり精神性のところにまで話が及んでます・・・)      1996年9月
−アルバムタイトルのことからお伺いしたいと思います。「MISSING PIECE」という言葉には氷室さんのどのような想いが込められているのでしょうか。
「ある絵本に関連してってことで喋っちゃってるんで、だいぶコンセプチュアルなアルバムに思われがちなんですけど、そんな抑々しいもんでもないんです。たまたま、”MISSING PIECE”という曲に合ってる本があって。その絵本は俺が音楽をやっていく上での、(自分と)音楽との距離感に近い部分があったんですよ。それでアルバムのタイトルにするには、なかなか相応しいかなと」
−その”俺と音楽との距離感に近い部分”という部分をもう少し詳しく教えていただけますか?
「自分に足りない、欠けてる何かを探してっていう」
−やはり氷室さんが音楽をやってる理由というのはそういう部分にあるわけなんですか?
「はいそうですね。それしかないかもしれません、原動力になってるのは。自分にとって本当に表現したいこと、それを探し求めてるっていう感じがしますね」
−シルヴァスタインの絵本「ぼくを探しに」「続ぼくを探しにビックオーとの出会い」は氷室さんを理解する上で、ヒントになる作品と言えますか?
「それはあると思います。今まで俺がずっと音楽を作ってきましたよね?そのスタイル、俺が何をやってきたかっていうところを理解する上では助けになると思います」
−今回のアルバムは制作期間が1年ということですが、その間はずっとこのアルバムのことを考えてらっしゃったわけですか?
「ええ、考えてますよ」
−ホントは少しくらい休憩したいんだけど、それを許さないもう一人の自分っていうのが氷室さんの中にはいらっしゃるんですかね。
「俺の場合はいつも音楽を作ってる自分しかいないかもしれませんね。何年か前からバスフィッシングに凝ってて、釣りにに行きますけど、釣ってる時もやはり考えてますからね。例えが変かもしれませんけど、子供の頃に絵を描くのが好きで、くだらない絵をずっと描いてたんですね。人にはあんまり見せたりはしないのに、納得がいくまで描いてはグシャっとやってて。そういうタイプの子供だったんですよ。その作業が今は歌に変わったというだけで。ただ、自分でもこういう風に根をつめてやっていくことがいいことなのかってことは、何年か前から考えてて。リフレッシュしなきゃ、とは思いますけど結局無駄なんですよ。早くいい作品を作ることが一番のリフレッシュにつながる。早く答えを出すことが一番の開放につながりますからね。ただ、こういうことをあえてインタビューで言ってしまうと”過剰にストイックな人”っていうそういうイメージを持たれるのも、最近嫌なんですよ。もうちょっと”楽勝で”っていう風に見られたいんです。スタジオに入って自分の作品に対してストイックになるのは俺の勝手なわけだから、本当はこういうこと、語りたくないんです。それが美徳なわけではないですし。作った作品を人が聴いてどう感じてくれるかで勝負していきたいですからね」
−今回、曲はポンポンポンと生まれてきてたんですか?
「いや、かなり時間がかかってます。ただツルッと出てきた曲もありますけどね。ストーンと上から落ちてきて、頭から最後まで出来ちゃうというのも、それが”SQUALL”です」
−過去、そういう形態で生まれた楽曲は?
「”LOVER'S DAY”はそうですね。人気投票とかすると、かならず人気あったりするっていうのを聞くと、面白いもんですよね。時間をかければいいっていうものではないんでしょうね。自分の満足度っていうところとは別の観点からいうと」
−不躾な質問かもしれませんけど、そういう話を聞くと、宇宙からのテレパシーじゃないですけど、何らかのものを受けてそれを歌という形にしてこの世に落とし込んでるのかなと思ったりするんですよ。
「俺も宇宙の話とか好きですから。結構、そう思う時間はありましたね。例えばNEO FASCIOというアルバムを作って、その頃に天安門事件とかベルリンの壁が崩れたり。自分の中に予知能力なんてないですけど、何かに導かれて自分が作る、それが結果的にそういうものとつながっていくという経験は何度かしてますから、宇宙とのつながりは信じたりしますよね」
−例えば、曲がストーンとおりてくる時ってどういう感覚なんですか?
「何もしないで遊んでる時におりてくるってことではないです。例えばバスフィッシングしてる時にいい曲がツルっと出来るってことは絶対にないです。俺が言ってる宇宙からおりてくる感覚っていうのは、突き詰めて突き詰めて、トランス状態になった時に、何かがトンとおりてくるっていうか・・・。この言い方、ちょっと危険ですけど(笑)」
−ミスチルの桜井君と話した時に、家でくつろいでて、トイレに入ってる時に出てきたって言ってたんですけど。
「ああ、それは天才なんじゃないですか。俺はそういうタイプではないですからね」
−桜井君が天才だとしたら氷室さんは・・・
「努力型だと思いますよ、限りなく。ただ、天才が何人いるかって言ったら、それはほんのひと握りで、みんな陰で努力していると俺は思ってますよ。桜井君のそれだって、俺は信じないですからね。”そんなハズねぇや”って」
レコード会社移籍に関しては−
−新しいレコード会社へ移籍したのは、氷室さん自身も何か新しい刺激を求めていたという部分はありますか?
「そうですね、きっかけは東芝EMI時代にすっごくお世話になった人がポリドールに移ったんです。その人はこのままいけば当然エグゼクティブなのに、それをあえて捨てて新しい何かを求めた。それが単純にカッコいいなと思っちゃったんですよ。男心をくすぐられたというか。そこで、社会的な自分の立場とか損得とかを計算できる人はきっと賢い人なんでしょうけど、そういうものを越えちゃう隙間が俺にはよくあるんです。あのまま東芝EMIにいれば俺も安泰だったと思うんです。氷室京介っていう型にハマった、他人が納得するものを作ることは大変な作業ではなかったでしょうからね。ただ、それとは違うことをやってみたい自分がいるんでしょうね。”まだまだこんなもんじゃねえぜ”っていう。俺自身が自分に対する可能性に期待したいんでしょうね」
−自分に対する可能性に対して、大きく一歩を踏み出す時期だったんですかね。
  「だと思いますよ。それも天からの声なのかもしれませんよね」
参考文献I

LETTER from NY                                1996年夏 
  年々自分に対するハードル高くなっていくよね。それはまずソロになった時から、より強く意識し始めたものかもしれない。
バンドとソロの違いは何かっていうことをよく聞かれるんだけど、当然まず大きなポイントのひとつは、創り上げられていく作品に対するジャッジメントにあると思う。
バンドはね、その成功とか記録だとかっていうことは根本的にはあまり関係なく、とにかく楽しかった。楽しいモノだと思うんだ。音楽をやっていくということは。結構楽しいことなんだろうけれど。バンドの楽しさっていうのはソロのそれとはまったく異質のモノなんだ。
仲間達で同じ達成、成功を夢みる。
年齢や、バンドのスタイルによってカタチはさまざまだとしても、少なくとも共通の価値観に準じる奴らがいつも周りにいることは、いろんな意味で心強いよね。バンドの音や方向性を4人なら4人、5人なら5人で決定していくことがテーマになる。もちろん最高のメンバーに任せることで解決ができるんだ。よりすぐれたバンドであるために、基本的にそのバンドのために全力を尽くしていく。そして自分たち個人はバンド名で呼ばれてバンドとして評価されたり批判されたり、認知されたりしてキャリアを過ごす。
けれどもソロは根本的に違う。
すべてが自分自身と向かい合って、すべてが自分自身に返ってくる。当然、リクエストして、自分の音に対して最高なミュージシャンやスタッフの連中とスタジオに入るわけだから、作業は楽しくないはずはない。
けれども、ジャッジメントには強くデリケートでいようと考える。だってそれは、すべての責任は俺個人に対して、結果生まれてくるものなわけだからね。
バンドとは違った楽しさはそこにある。
自分自身に対してのみ返ってくる責任や評価。そんなスタンスが最高だと、今は考えているんだ。とても気に入っている。

TOURはいつですか?っていう質問をよくされる。みんな待っていてくれるんだなぁと思うと、ホントに嬉しく思います。俺の場合、新宿のロフトっていうライブハウスから出てきてるってキャリアもあって、オンステージなイメージもきっと強いんだろうなと思うんだけど・・・。
秋のリリースに向けて、今アルバムの制作がようやく終わりに近づこうとしています。どんなステージを創っていくか、完成した96年リリースのアルバムと97年のリリース予定、そんなさまざまなことを考えながら、来年にはみんなの住む街へ必ず行こうと思っています。ライブハウスやクラブもまた増えているようだし、コンサートホールやドームクラスの会場もまた増えていきそうだよね。そんな中でどんなツアーを創っていくのが最高なのか、今年の後半じっくり考えてみようかなと思ってます。
数えられるくらいのオーディエンスの前に始まったステージも、考えてみればいろいろな街や場所でのTOURをこなして、たくさんの人たちと出会ってきたよね。大阪のスケジュールやら野外やら、俺にも忘れられないことがたくさん生まれました。
今度もまた最高のステージでみんなを迎えたいなと思います。新しい作品たちと俺が、こんなステージをやりたい。そんなふうに自然に感じられる時がまず最高のステージへの始まり。
以前ドームで”たまには座って俺の曲を聴け”なんていったことがあったけど、(本当に5万人いっぺんに座られてビックリもしたが)ライブのスタイルも含め、今いろいろと考えているところです。今年かな、来年かなー。そんな遠い未来じゃきっとありません。最高のステージを、みんなと創りたいと思ってます。
俺、ステージ大好きだから。
参考文献J

自分の足りない何かを探す (毎日新聞別刷より。田家氏による解説)        1996年10月1日
(彼が取材の席に姿を見せるのは、丸2年ぶり。公の場に出るのも、95年3月に武道館で行われた「阪神大震災チャリティイベント」以来となる)
「全然人前に出なくて済んだら、もっと楽なんでしょうけど。申し訳ないと思うこともありますよね。いつからこうなってしまったんだろうって(笑)」
(活動休止していたわけではない。むしろ逆だ。7年間在籍していたレコード会社の移籍。その間のシングル全曲を集めたアルバムSINGLESの発売。自らのレーベルBeatNix発足。3枚のシングルの発売と3曲のプロモーションビデオの製作。精力的な活動を続けていた)
「ビジョンみたいなものがあるわけじゃないですね。そのつど必死にやってるだけで。いつごろ何をやってたかも、ほとんど覚えてない」」
(移籍第一作アルバムMissingPieceが出た。すでに発売されたシングルを含め全10曲。レコーディング作業は丸々1年。東京、ロス、ニューヨークと場所を買えて行われていた。)
「1ヶ所で短期間で終わるのが理想なんでしょうけど。24時間レコーディングいっぱいで、リズムどりから集中しっ放しですしね。最近は、それが必ずしもいいこととは思えなくなってますけど。ムンクやゴッホじゃないんですし(笑)。オレはプロのヴォーカリストで、アーティストじゃないですから」
(日本の音楽シーンのエポックメーキングな存在の一人。7年間続けたBOOWYは、今もビートバンドの最高峰として支持され続けている。ソロ以降も”ビートの実験”を繰り返してきた。SINGLESには、その軌跡が刻み込まれている。)
「全部違ってますからね。普通ひとるのスタイルで成功するとそれを死守しないといけないですけど、そうじゃないですから。それこそMissingPieceじゃないですけど、自分の中に表現したいことがあって、それがうまく出来ずに探しながらずっと来ている感じが強いんです」
(MissingPiece---。足りない何かを探す。失われた欠片を探す。そんなニュアンスになる。移籍第一弾のシングル「魂を抱いてくれ」は、初のバラードだった。アルバムの中でもバラードの比重は大きい。”ビートリヴォリューション”のけん引者ならではのバラード。)
「もともと勢いで歌っていくタイプですからね。頭の中には完璧なスタイルで鳴ってるんですけど。難しいし。時間がかかりますね。」
( きしむようなスピード感、リズムの裏をかいくぐるようなしなやかなグルーヴ。深みのある揺れや粘り、独特のヴォーカルスタイルとバラードやメロディ、ファンク、ジャッジーなソウルなどとのマッチングによる新たなテイスト。)
「レトロっぽいことをやってみたかったんですね。自分の中にあるニューウェーブ以前の音楽。アルバムの中に二つのアプローチがあるのも、オレにとってのMissingPiece」
( Naked king On The Blind Horseはバージョンの違う2曲が収録されているのも異例の試みだろう。
区切りの第一歩。より多面性を獲得した第一作。)
「ステージの確固たる何かが見つかるまで」
しばらくツアーはしない。水面下での”MissingPiece”は続行中だ。


本・「ミッシング・ピース」について                             1996年11月
「円になりきれないかけらがあって、そいつが足りない部分を探して延々と旅に出るんです。その途上でいろいろなものが、形が合っていないのに無理やり突っ込んできたりとかする。どれもうまくいかない。で、あるとき自分に欠けているかけらをしっかりと埋めてくれるものがあらわれて、完璧な円となり、ころころとうまく転がることができるようになった。ところが、しばらくすると、何か違うなと感じはじめる。いままでよく見えていた景色が、うまく転がりはじめたら見えなくなってしまった。そしてある瞬間から、くわえていたかけらを自分から放り出して、こんどはひとりでゆっくりと進んでいくというふうな話なんです。その話と、音楽をずっとつづけてきた僕の距離感…音楽と僕の距離感、そこがけっこう近いなというところで、MISSING PIECEというタイトルにしたんです。」
93年ツアー”やり直しライブ”について
「それについてはあまりふれられたくないんです。プロはステージに上がる以上は、必ず100%以上のものを見せなきゃいけないという義務感がありますよね。じつはそれはオーディエンスにたいしてじゃなく、自分自身にたいしてなんですけども、全曲やったからといって、ひとの観点じゃないところで自分では評価していますから。自分にたいして負い目が残っていくのは、気持ち悪いですからね。そういう意味ではスタッフにほんとに恵まれたと思っています。」
ひとりが好き
「SHAKE THE FAKEの詞を松井さんから見せられたとき、この歌をこころにコレストロールのたまっているやつらにむかって歌うんだと思って、それならばまず自分自身の肉体を鍛えなければ延々と走りはじめたことがありました。孤独なんですね。ボクの宿命なんです。ひとを信用してないんでしょうね。ハングリーなんでしょうね。」
参考文献43



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