’97〜’98

  STEVE STEVENSとの出会い・・・まさにRE-BORNの年




「IDEA」制作後、今後について語る・・・                  1997年12月
−今回のツアーについては?
「来年の6月か7月くらいですね。具体的にコンサートで地方の人にも会いたいなって思うけど、まだスケジュール出てないんだよね。だからちょっと分からないけど。でもやらないとやばいなって意識あるし、俺は元々ライブハウスから出てるからやっぱりライブ好きなのよ。スタジオ内に向かってるベクトルがずっと続いて、やっぱ外に向かって見せる場を作ったほうがいいと思うよね。ライブは6月7月にやろうと思ってます」
−およそ3年もライブをやってませんでしたが、そのブランクを氷室さんはどうとらえていますか?
「俺は全然関係ないと思うけどね。っていうのもパフォーマーとして、オーディエンスを説得するだけの力ってのは、元々俺はあるに決まってるからそこは意識してるよね、自分で。俺はライブパフォーマーとしてはすごい才能があると思うよ。それは3年間休んだからって・・・肉体的に病気になっちゃってたりしたらだめだろうけど、それは全然平気だと思うよ。だって若手のバンド見てても、結構、あ、このステージングって俺のパクリじゃんってあるからね」
−ありますよね、これが(笑)。特にステージングに関しては発明品としてBOOWY、、氷室京介があるから。
「発明品(笑)。特許申請しとけばよかったよね(笑)。たしかに俺のステージングには吸引力があるよね。俺は計算でやってないし、ステージの上に立たされたらそうならざるを得ないわけだから。そういう意味では3年後に変わらないステージができるでしょう。早くやりたくてしょうがないよね。それと自分の作品だけじゃなくて舞台演出っていうトータルな総合芸術を高めるために、ちょっと考えてることはあるけど。それは具体的にまだ見えてないな」
−ライブツアーにスティーブ・スティーブンスが参加すると考えていいですか?
「もちろん。もちろんそうしたいと思います。ただスケジュール的な問題もあるんで、それは調整中だけど」
−ロスでここ何年か制作活動をして模索しつつ、このアルバムに着手して、やっと自分の音楽観念を示す、「I・DE・A」というタイトルをつけてもいいだろうという作品ができましたよね。結果、氷室さんは考え方、人生観、ものの見方などに変化はありました?
「難しい質問だね。本当に、結構大局的な質問なんでどう答えたらいいのか分かんないけど、ものの見方という・・・音楽に対する接し方は完璧に変わっていこう、変わっていける、変わってよかったじゃんって確認はすごい出来てるよね」
−それは音楽のみということですか?
「いや、それは音楽に限らず人生すべてがそうかもしれない。だって俺は音楽がすべてだから。で、あとは自分可能性に・・・・、さっき言った自分の可能性に対してもっと期待をしてていいんだってい感覚が出てきたよね。そうだね、それはすごい感じてる。もっと具体的になんていえばいいのかな・・・・・」
−自分の可能性に期待が持てるっていうのも、その都度その都度っていうその場しのぎ的な可能性じゃなくて、いつどこで何が出てきてもいいっていう可能性のように感じますね。
「うん、生きていく上での心構えとしてね。それはもちろんそうだよね。単純にスティーブと出会ってスティーブのビートがあるから今回は気持ちよかったって程度のものじゃないってことだよね。自分が何を今後・・・・・、何年生きるか分からないけど、何をやればいいかってことに迷いがないってことなんだよ。今までは守んなきゃいけないこともそれなりに多かったんだ。で、正直言ってその守らなきゃいけないものが大して魅力的でもないのに・・・でも一歩踏み出すがなかったからぐだぐだしてたんだと思うよ。それが一歩踏み出してみたら行けたぜっていう実感があったんだと思う。守りに入って平和的にフェイドアウトしていく人たちもいっぱいみてるけどさ、そんなもの俺の人生のなかであっちゃいけない幕だよね。ここ何年間か煮詰まってた時期はとっても無駄な時間を過ごしたなって思うし、その分マキで行こうかなって思うし。だから本当に今、具体的に言ってお風呂敷みたいになっちゃうのがかっこ悪いから言わないけど、考えてることはちゃんとあるからそれがちゃんとみんなに分かるように・・・そうだな、再来年ぐらいまでには「あのとき言ってたのは具体的にこういうことだったんだよ」って見せるようにするよ」
参考文献K

『ロック観』              1998年2月        ソロデビュー当時のロック観も語ってます
−下世話ないい方をすれば所謂日本のロックにおける雛形を作ったわけじゃないですか。「氷室スタイル」はその後のボーカリスト達にも多大なる影響を与えていますが。(調子こいたりしないか、という質問に対して)
「ならないんですねぇ。だから本当に音楽が好きなんですよ、きっと。適当に音楽が好きで成功して、図に乗っちゃうタイプの人もたぶんいると思うんですけど。だから図に乗るよりも、そこで成功すれば作品作るのにもある程度お金をかけられるわけで、そういう良いチャンスを与えられてる事の方が大きいんですよ。だからもっともっと「売れる」じゃなくて「文化」として自分の作品が人に何を訴えるかという部分を突き詰めてみたいとやっぱ思っちゃいますよね」
−「メガセールスを獲得する方法」ではなく「意識を高めるには?」と。
「そうそうそう。で、そういう俺がもし100万枚とかをキープしていけたなら、日本の音楽文化は結構素敵ですよ。300万枚売るための音楽もあると思うんです。で、10何年間この第一線で演ってきた俺が狙ったら、ある程度作れると思います。ただ、今は別に演りたくないんです。そんな事よりも、数字が減るとかのリスクを負いながらもっと本当にカッコイイ事−自分が子供の頃描いていた「ロックというもの」を追求していきたい」
−「ロック観」ほど個人差が大きいものはないけども、氷室さんにとってもっとも大きい魅力は何ですか?
「んーー・・・新しいことを演ってるものが、俺にはいつもロックに聴こえてるんですよ。例えばセックス・ピストルズとか。いつもいつもその時代の音楽や文化を全部打ち消すような、今まで築き上げたものをぶっ壊しちゃうぐらいのパワーがある何か---それがロックなんです。だから、今俺が日本の文化の中で「氷室がやっぱりロックだよね」と言われるためには、具体的に演らなきゃいけない事はいくつかあしかなりリスキーではあるんですけど、俺はそれを3年間以内に演ろうと思ってるんですよ。その為に今、LAに居るんですけど」
−でもここまでかなり時間を費やしちゃいましたね「
「そうですよね、半端じゃないです本当」
−試行錯誤の歴史、ですか。
  「ありましたありました。たぶん、今回スティーブと出逢ってなければ、未だに紆余曲折してると思うんですよね。新天地というか、気分がすこっと抜けて音楽と接しられる自分の境地を探し求めて。すると今回のアルバムは「MISSING PIECEU」になったんですけど(笑)」 
そもそも何故LA?
−そもそも何故LAを選択したのかと?
「今回は去年の12月にビデオクリップ録ってそのまま居ますから、1年弱ですけど、5年前にコンドミニアムを購入してからちょくちょく行くようになって、年間に3ヶ月と4ヶ月とかで。正直な話、最初はアメリカの音楽だったら何でもよかったんでしょうね、日本の歌謡曲や歌番組から受けるバイブレーションと全然違ってれば。でも実際、凄い自然体で居られますよ。特にNYよりもLAの方が--俺は都会は苦手なのかもしれない。人がうじゃうじゃ居るような場所はあんまり落ち着かないんですね、きっと。群馬出身だからですかね(笑)」
参考文献M

ツアーをやらない事でレコード制作に専念する それを経験したかった    1998年1月
「別にしばらくツアーをやらないとか3年休むとか、明確に決めてたわけじゃないですね。
ツアーを行うっていう事は、1年間のうち丸々4ヶ月くらいを割かれちゃうじわけじゃないですか。その間にクリエイティブな事も並行してやれるほど器用なタイプじゃないんですね。だから、ツアーをやらない事でレコード制作に関する時間を思い切りフォーカスできるというのはありましたね。バンド時代を通してレコード出してツアーをやらないっていうのは初めての経験でしたからね。でも、1年目にはツアーやりてぇなと思いましたけど(笑)」
「SHAKE THE FAKE」最中は悶々としてた
「SHAKE THE FAKE」を作ってる最中が悶々としているピークだった。だから、東京ドーム2日間やった時点で、自分の中で決着はついたんですよ。過去に関しての。生まれ変わるって言ったら変ですけど、過去の自分のキャリアを捨ててもいいやっていう気持ちはありましたね。
元々決められたイメージの中でガチガチになっていくのは嫌いなんですよ、昔から。氷室京介のパブリックイメージみたいなものが完璧にできあがってましたよね。その中であがいていたんでしょうね。やっぱり演じようとするじゃないですか。それと自分の欲求とのバランスが取れなくなってたんでしょう」
ビート感は永遠のテーマ
「ストレスでしたよ。ビート感にしたってそうだし。ただ、ソロ一枚目に関しては、完全にブッチぎってるよね(笑)。オケがどんなオケで来ようが、BOOWYで培った歴史が血の中に流れてるっていう感じですよね。それが段々薄くなっていって、Memories of Blueで成功しちゃって、余計分からなくなったのかもしれない。
ビート感は永遠のテーマなんですよ。結局日本で、俺の求めるビート感を捜しまくって、なかなか見つかれなくて。ギタリストにしてもそうで。夫婦と一緒なんですよ。頭で理解してもらっても違うんですよ。聴いてきた音楽とか、体の中にあるものとか、何も言わずにダンって弾いたときにしっくりいくかどうかだし」
IDEAは自分の中で最高のアルバム
「IDEAを作ったことで手にした自身ていうのかな。自分が若かった頃に持っていた、何て言うのかな、エネルギーみたいなもの。ずっと売れてきて周りからもスター様みたいにされてスポイルされて忘れかけていた自分のオーラなんでしょうね。多分聴いてる人の中ではMemories of Blueより理解しづらいと思うんですよ。でも、自分の中では最高のアルバムですもん。非の打ち所がないくらい。それは、作品を作る側と受け取る側の宿命的なギャップなのかもしれませんけど。それをうまく処理しながら一番いいテンションで一番いい作品を送っていけるのがいいアーティストだと思うんですよ」
参考文献O

ニューシングルHEATについて  1998年2月 
「ドメスティックな、浪速節的な資質は強いよ。消したいと願った頃もあったけど、自分に流れるものを否定したらコラボレーションなんて成立しない。HEATは日本人ウケする要素が強いからスティーブに頼むのに躊躇したけど、そこを踏まえて普遍的なロックンロールに仕上がった。彼のギターが氷室京介という存在と共鳴して生み出せたわけでしょ。気持ちに一点の曇りも迷いもなく。18か19で上京した頃とおんなじ。根拠のない自信とテンションとスピードに身体をまかせて加速していける」
参考文献R

ツアー、3年半のブランクについて              1998年6月 
「俺はね全然関係ないと思うけどね。っていうのもパフォーマーとしてオーディエンスを説得するだけの力ってのは、俺にはあると思うから、そこは意識してるよね。ライブパフォーマーとしての自分の才能。それは3年半休んだからといって、たとえば肉体的に病気になっちゃったりしたらだめだろうけどね。だって若手のバンド見てても、あ、このステージングって俺のパクりじゃんって思うときあるからね。
ってことは俺のステージングには吸引力があるってことでしょ。俺は計算でライブをやってないし、ステージの上に立たされたらそうならざるを得ないわけだから。そういう意味では3年半たった現在でも変わらないステージができるでしょう。早くやりたくてしょうがないよね。それにプラスして、自分達の演奏だけじゃなくて舞台演出っていう総合芸術度を高めるために、ちょっと考えてることはあるけどね」
参考文献37




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